知覧特攻平和会館。
そこには、沖縄特攻戦死者の遺書や遺品、資料、戦闘機の模型などが展示されています。
特攻とは、戦闘機に片道の燃料を積み、敵艦に体当たりして船を沈めるという、行けば必ず死ぬ「必死」の攻撃。
戦闘機以外にも人間魚雷「回天」による水中特攻や、陸上特攻もありました。
「命は尊い」と幼い頃から教えられてきた私には、自らの命を国の為に放り出す気持ちが全く信じられませんでした。
特攻隊出撃の時の気持ち、必ず死ぬことを分かって飛び立つときの思いというのは、どんな気持ちなんだろう?
そんな事を知りたくて、知覧特攻平和会館へ行く事にしました。
知覧特攻平和会館の遺書や遺品の感想
※館内は撮影禁止なので写真は撮っていません。
特攻隊で戦死した方の写真が、会館の壁中一面に展示され、写真の下には遺書や遺品がガラスケースの中に展示されています。
1,036名。それもほとんど10代、20代前半の若い人たちです。
(展示されているケースの下には引き出しがあり、その中にも多数の遺品が・・)
遺書を読みたいけれど、とにかく達筆な上に言葉が難しいので、自筆のものは読み解くのが難しく、目をこらして必死に読みました。
が、人物を検索できる機械が館内に設置されてあり、検索すると読みやすく打ち直された遺書が読めます。
親兄弟に向けての手紙がほとんど
特攻隊員に選ばれた人は、17歳~24歳くらいの若い人。
まだ未婚の方が多かったので、手紙の相手は、お父さんお母さん、兄弟宛てがほとんどです。
いくつも手紙を読んでいると「母」というのはやはり偉大なんだなと。
手紙の最後には「お母さん」「母上」で締めくくられている事が多く
最後には母に甘えたい・・そういう思いが節々から感じられました。
しかし一方では「父上」だけに宛てた手紙もあり、そこには
「私が亡くなった事は、母にすぐには知らせないでほしい。悲しむだろうから。」
といった自分が死ぬ悲しさよりも、母の事を気遣う事が書かれているのです。
「父上、母上、お体に気を付けて、長生きして下さい。」
と書いている手紙も多々ありました。
「長生きして下さい。」
これを受け取った親はどんな気持ちになるのだろう。
自分の息子は20年そこそこの命だったのに、、
現代人と違いとにかく文章力に富む
この時代の若者は、どうしてこんなに素晴らしい文章を書くのか。
と遺書を読み辛くなる気持ちとは裏腹に感銘を受けていました。
ここで本音は言えないので、皆、出撃する事を『光栄な事』だと言います。
最後の最後まで本音を隠さないといけないのです。
今日これから死にに行くことすら
忘れてしまいそうだ
枝 幹二
この詩を読むと、清々しい情景が映し出される気がしますが
その奥に、どれだけの悲しみ、恐怖、無念さがあるのか計り知れない
胸が苦しくなる詩です。
婚約者に宛てた手紙
私にとってひと際印象に残った手紙があります。
手紙の内容は、、
結婚の日を楽しみに別れたが、その後部隊の状況は一転し、特攻の任務が下った。
という事と、婚約者やその家族への感謝の気持ちが書かれ
その後がこちらです。
(抜粋です)
問題は今後にあるのだから。
常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。
然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
「あなたの幸を希う以外に何物もない。
「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。
「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
穴沢は現実の世界にはもう存在しない。
(中略)
智恵子。会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って往く。
引用:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1099.html
穴澤利夫
結婚を目前に、どれだけ無念だっただろう。
しかし、残された婚約者のこれからを考え、自分の事は忘れて生きなさいと言った。
どれだけ苦しかっただろう・・。計り知れません。
計れる訳がありません。
そして自分が死ぬ間際でも、客観的に物事を捉えている事にも驚きました。
でも最後には、会いたい・・と本音が漏れ、、、
なんと言葉に表せば良いか分からない。
残酷です。
17歳~24歳くらいと言えば、人生で一番輝いている時です。
こんなに若いのに国の為に命を捧げられるのは何でだろう?
知覧特攻平和会館へ行って知った特攻隊出撃の時の気持ち
特攻隊員として出撃した人は、「十死零生」 必ず死にます。
ですが、飛行機の不調で攻撃せず帰ってきて、そのまま終戦を迎え命を取り留めた人がいました。
知覧特攻平和会館にある、戦争から生き延びた方々の映像の中にその人はいました。
「どんな気持ちで出撃したのか?」
という問いに対しての答えが、私には驚愕でした。
「仕方ないと思った。」
と言うのです。
沖縄まで攻め込まれている。ここで行かないと日本がダメになる。もう仕方ない。
そんな様な事を仰っていました。
もう仕方ない。と思おうとする気持ちまでは理解できても、頭で納得できても本能が拒否をするものじゃないのか?
死への恐怖、生への執着という人間の本能が勝って、「やっぱり行きたくない!!死にたくない!!」とならないのか。
その方は、航空機の不備で敵陣まで行けないと分かった時、無念で無念で、何とか行けないものか、と思ったそうです。
何も果たさず無傷で帰るのが心苦しかったとか。
何としても行きたかったそうです。
先に散って逝った戦友に、申し訳なかったからなのか。
不思議です。命拾いして、幸運に恵まれたと思わないなんて。
出撃した人の気持ちを聞けたのは、とても貴重でした。
ですが、その時の心境は人それぞれ違うでしょう。
遺書を書きながら、すすり泣く人がほとんどだと思います。
家族と別れるのが辛い。
好きな人に会いたい。
何でこんな事を自分がしないといけないんだ!
死ぬのが怖い。死にたくない。
一方、これがさだめだと、お国のため、天皇陛下のため、必ず任務を遂行する!
と腹をくくっていた人もいたと思います。
どんな気持ちか、皆一緒な訳がない。
ただ、若い人ばかりだから、未来に夢や希望を持っていた事は間違いないだろう。
と思います。
まとめ
リアルなのにリアルでない。
まるで映画の世界にいるような、現実として受け止めきれない現実がそこにはありました。
自分より若い人たちが、将来の夢を諦め国の為に散って行ったのです。
そして、たった70年でこうも世の中は変わるものなのかと、痛感します。
現代人は当たり前に
言いたい事は何でも言えるようになりました。
食べる事にも困らず、むしろ食べ物があり過ぎて捨てる世の中になりました。
命を脅かされる事なく眠れるようになりました。
やりたい事は大体なんでもできるようになりました。
でも夢を持つ若者は少なくなりました。
70年数年前亡くなった若者が見ると、希望に満ち溢れた世界になったはずなのに、人の中身は空っぽになっている気がする‥。
戦争を体験した人はどんどん居なくなっていきます。
知覧特攻平和会館へ行って、戦争の残酷さ、恐ろしさを現代人も知るべきと思います。
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